学校の美術の授業って全然上達を意図してないじゃん

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中学生の時分、美術が嫌だった
とにかく下手くそなのだ。
紙上に現れた、頭の中のイメージとは似ても似つかないものを引っ提げて
学期末の作品観賞会に臨む

そして成績には3がついている
これが僕にとっての美術だった

そんな美術体験をし続けていた僕にとっていつも謎だったのは
「なんで美術の先生はどうやったら上手くなるのか教えてくれないのか」
ということだった。

僕がいくら聞いても(イメージとかけ離れた大惨事がいつも繰り広げられているのでよく先生にどうすればうまく描けるのか聞いていた)
なんだか具体的じゃないことを、ふにゃふにゃと言って、
「あとは自分で考えてごらん」とアドバイスタイムを終わりにされる

相手はアートであるから、指導してくれなかった理由も大方想像はつくのだけれど(きっと個性とか、感じたものをそのままとか)
それにしたって、もうちょっと基本的な描き方みたいなものを示唆してくれたっていいんじゃないか

全く指示がないから、目的も読めず、趣味の時間なんだったら家に帰してくれという感じである。

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じっさい、明治時代に学制が始まったころの美術の目的は
創造的な作業というよりは見たものを正確に写し取ることにあったらしい
元々は芸術的な作業というより、軍務の図画作業から生まれたということだ

それが大正時代にヨーロッパの自由な児童画に感銘を受けた
山本鼎という人が自由画教育運動というのを起こし、
子供の主体的表現を重視し、技巧も子供自ら発見させる
方針が生まれたのである

以降、戦前の頃までは現場レベルで正確な描写主義と自由画主義がせめぎ合っていた

なんにでも歴史というのはあるものなんだなぁ

その人の言葉がいいですね。
「子どものお手本を備えて教えてやらなければ画は描けまいと思うならおおもちがいだ。我々を取り囲んでいる豊富な自然は、いつでも形と濃淡で彼ら等の目の前に示されている。それが子どもらにとって唯一のお手本なのだ。それらのものが直感的に或いは幻想的に自由に描かれるべきなのだ。教師の任務はただ、生徒らをこの自由な創造的活動まで引き出すのだ」

自由画教育の時代 : かずくんのアートの授業(ここクリックすると最新ページに)

ひたすら写すことがよしとされるのと自由に心情を描くのと
どっちか2択だとしたら、まぁ後者の方がいいだろう

でもそれじゃあ僕は救われない。

そもそも、この図画教育と自由画教育というのは
2者択一的なものではなくて、絵が持つ2つの役割をそれぞれ語っているんじゃないんだろうか

絵を描くことを例とすると
自分の考えを表現するアートとしての絵画もあれば
(これは別に芸術家だけのものでない、pixivとかなんかまさにそんな感じ)
日常生活で人に何かを伝えるツールとしてのイラストもある
(地図とかだって図画能力がなきゃ書けないし)

全く違う役割がある以上、図画教育、自由画教育
どっちが正しいというか
両方美術の指導範囲に含めたほうがいいんじゃないだろうか

学校教育は天才の為にあるわけではないし

両方をカリキュラムとして採用してくれれば
数年に1度、何かを伝えるために
イラストを描かなきゃいけない場面で冷え汗をかく僕のようなおじさんは
少しは減るんじゃないでしょうか



参考
平成15年度 大阪府教育センター

自由画教育の時代 : かずくんのアートの授業(ここクリックすると最新ページに)